カセキホリダー

体験版しかプレイした記憶がない。製品版は買わず、マクドナルドに行くたびに母親の隣でDSをWi-Fiに繋ぎ、その場限りの楽しみを味わっていた。そのカセキホリダーも、高校以来の友人が中古で購入していたのをInstagramで見かけた。何故今更。

とか言っても、何となく気持ちはわかってしまう。ぼくもこの間、衝動的にドラゴンボールヒーローズがプレイしたくなり(それも3DS版)、わざわざ机のどこかしらから引っ張り出して触ってみたのだが、どのようなデッキをどのような構成で組んでいたのかまったくわからなくなり、カードを眺めるだけでやめた。思い出を掘り起こすだけ掘り起こして、由来不明の引っ掻き傷程度の感傷を少しばかり付けられただけ。記憶のカセキホリダー

そして今し方、僕は別の化石を掘り出した。これは何となく発掘したわけではなく必要だから探し当てたのだが、なかなかの年季もの。小学生の頃、合唱部にいた時に世話になった楽譜だ。というのも、授業で楽譜が必要になって新しく買う金がない為の手段だったのだが、開けてみると懐かしい書き込みばかり。しかも一見意味不明なのだが、ぼくの脳にはどうやら未だに解読コードが刻み込まれていたらしく、歌い方のニュアンスや子音の使い方。ブレスのタイミングまでほとんどが読み取れた。

なんて真摯なやつ、と小学生のぼくに声をかけてやりたくなった。この頃は勉強そっちのけで歌やダンスに夢中だった。どこから湧いてくるのかは知らないが、無尽蔵に現れる狂気すら滲む衝動が、ぼくをひたすらに突き動かしていた気がする。わけもないのにひたすら歌って踊る。何が楽しかったのか、今のぼくにはわからない。ただこの内から湧き出る穢れのない欲求が尽きるとは思ってもみなかっただろうし、実際それが尽きてみると、それがどうしてぼくの中にあったのかがわからない。過去のぼくと現実のぼくが剥離している気がする。実際、小さい頃の美声はドブに捨てて、今はマイクと客に向かってがなりたてているし。

あれは誰だったんだろう、とぼんやり考えてみる。攻殻機動隊みたいに、存在しない記憶をどこかで埋め込まれたのかもしれない。そうだと少し怖いが、現実とアニメの区別はまだ付いている。とはいえあれがぼくであった確証というのも、実は薄弱だ。ぼくという人間がどこかで本質からひっくり返ってしまったのか、地続きであることが嘘のように思える。あの頃の屈託のないぼくの笑顔は何処。

古い思い出ってこれだから。拒絶しているわけでもないのに、何となく足枷を付けられた気になる。重たくて痛い。こういうのを抱えて生きていくのが、時折憂鬱の種になったりする。

多分、綺麗すぎるのだろう。あの頃より随分荒んだ自覚はあるし、趣味嗜好も、根幹は変わっていないだろうが、変異は多少なりともある。それも邪な思いたっぷりのものだって。だから小さい頃のぼくに、何となく申し訳なくなる。真っ直ぐやってたのにごめんな、と。

誰かの誇りでありたいと思ったことはない。でも、過去の自分に誇れる人間でありたいとは思う。多分、手遅れだろうか。あの愚直な少年に聞いてみたいもんだ。カセキホリダーを買わなかった、あの少年に。