厨二病

自分の定義とは何か、とか言い出すと、大体痛いやつとか厨二病とかに分類される。気持ちはわかるし、思春期が過ぎる議題であると思う。ただこれ、嘲笑で一蹴してしまう輩はそれ以上に酷いやつだとも思う。

こういうのは大体、数千年前から哲学者が唸りながら考えていることで、ぼくらみたいな有象無象に一括りにされてしまう人間が考えたところで到底そこには及ばないし、一般に考えられる自己というのは哲学者がそれまで必死になって捻り出した答えであって、別にぼくら自信が辿り着いた場所ではなかったりするのも多々ある。有名どころで言うと、デカルトの「我思う故に我あり」とか。

デカルト程の賢人がどれだけの苦悩と年月をかけてそこに行き着いたのか、全くもって想像出来ない。自分という存在に問いを投げ、それに挑戦するというのは、普通の人間では到底ままならない。

デカルトは今、笑われているか。無論そんなことはない。笑うやつは馬鹿か、それかよっぽど思想が強い人間だ。

でもぼくらは笑われる。何故って、彼ほど賢くないから。彼ほど偉大ではないから。ぼくらはちっぽけ過ぎるから。

あまりにも知識とか思慮が浅過ぎるんだと思う。だからしょうもない浅い考えで自己という存在の確定に挑むし、行くあてがなくなって病んだり怒ったりする。

ぼくはと言うと、考えないと言えばめちゃくちゃ嘘だ。残念ながら21でもしっかり厨二病を患っている。

と言うのもぼくは読む本とか映画が、結構そういう議題が多かったりする。ハーモニーとかファイトクラブとか、アンドロイドは電気羊の夢を見るかとか。そういうのに触発されやすい。厨二病だから。

ただ考えて考えて、本を読んで、映画を観て、結局デカルトの言葉に行き着く。

考えている実感が、生きている心地がする。考えた結果、流れ着いた場所で音楽をやるのが楽しい。楽しいと考えるから生きているし、考えるのは楽しい。

最近、一人の時間を増やした。嫌なことがいくつか重なってしまって、なんとなく一人になりたかった。別に精神が参っていたわけでもないし、塞ぎ込んでやるとか思ってたわけでもない。普通に生きるついでに、一人になった。

なんか、やっぱりこれがいい。映画を観て、本を読んで、好きなことをのんびり考えて。そういうふうな生き方だと、自分が居る気がする。

ブログはそういう生活の一環で、考えた先だ。別に誰に見られてなくても良いし、見てほしいわけでもなくて、ただなんとなく居心地が良い。性に合っているという言い方が良いか。

煙草を吸って、お酒を飲んで、ゆっくり色々考える。これだけ見ると酒煙草覚えたての嫌な大学生だが、まあ実際大学生だし、良いじゃんか。これをTwitterとかにあげたらとうとう本当に厨二病な気がするけど。おいお前、ブログも変わらないとか言うな。

ただ正直、いつかこういうのにも折り合いを付けたい。精神的にも肉体的にも健康だとは思えないし、今は全く心配はないのだけれど、これでふらっと死んだら笑えない。厨二病だって笑われてる今が一番良い気がする。笑われる程度で終わらせるのが良いと思う。

ブログの更新が途切れたら何も考えてる暇がないか、考える気が起こらないか、それか新しい何かを見つけたか。少なくとも満たされている側には行きたいと思う。