Don't Think. Feel

好きなようにやれ、そして俺に指図をするな。ではなくて。久々の更新。

Don’t Think.Feel

Don’t Think.Feel

早速だが、タランティーノが好きだ。燃えよドラゴンの台詞をタイトルにしておきながら、タランティーノが好きだと言ってしまう自分。ブルース・リーに喧嘩を売っている訳ではない。

タランティーノの何が好きかというと、無駄ではない無駄が溢れていることだろうか。一番好きな映画であり、人生の教科書の一つとしているパルプ・フィクションの冒頭だとか、レザボア・ドッグスの冒頭もそうだし、ヘイトフル・エイトのイタリア語のくだりとか弾き語りのシーンだとか。

ちなみに有名な話だが、デイジーのギターはマーティン博物館からの借り物だった。そして、本来はレプリカで壊すシーンを撮影するのが、手違いで本物を壊したとか。ギターの破片は出演者のサインが書かれて展示されているらしい。

話が脱線した。なのでもう一度言わせて欲しい。タランティーノ映画の無駄ではない無駄が好きだ。

もう少し詳しく説明しよう。タランティーノ映画は大抵、登場人物が人間味に溢れている。映画批評家はこの「人間味」というワードを多用しがちだが、その言葉の裏には「本性」というディープなニュアンスが込められていることも多い。しかしタランティーノから受け取れる人間味とは、例えばアニメに観る登場人物のぼくらに近いマインドを指して「人間味」と言うのではなく、「こいつらも飯食ってクソして寝てんだな」というリアリティだ。下ネタを吐いて、下品に笑って、豚は汚いから食わず、トイレで新聞を読んで、イタリア語を使いたがって。どうでもいい一面が彼らに表れているからこそ、ぼくらは彼らに共感できる。無駄ではない無駄とはそういうことだ。だからそれについて、深く考える必要ないと思う。

というのも、後輩をパルプ・フィクションの再上映に誘った時に「難しそう」と言っていたから、突然こんなことを言い出したわけで。フィーリングとちょっとした思考で観られるのがタランティーノ映画だぜ。

とにかくまとめると、タランティーノが描く人間の無駄というのは僕らの生活の一部でもあり、そういった端々のリアリティが、映画の主題を引き立たせるということ。

最初からそう言えばいいのだが、無駄が好きなもので。