どの空でもいい

濃縮された鬱気が心身に充満するのは、周期的にあること。選り取り見取りの記憶にへばり付いた嫌な思い出とか、見窄らしいルサンチマンとか、ぼくだって相対したくないけれど、そいつらはぼくの精神世界に隠れ家を築いている。

ロックスターならクスリ。サラリーマンとか大学生なら酒。ぼくはどちらも好まない。というか前者は法に触れるから、大人がこぞって使う逃げ道はぼくには向かない。19歳だから後者も法律に抵触しまくるのだけど、飲んでないし。音楽は、確かにぼくを数多のしがらみから解放してくれるんだけれど、後々の一人反省会で滅多撃ちにされるのがお約束だから、ダウン気味の気持ちを跳ね除けるのにはいささか不適格。

これ、言うと引く人と納得する人の二択なんだけれど、ぼくが逃避の手段として使うのは、雨に打たれながら自転車に乗るなり走るなりすること。どれだけ冷たくても、服が汚れても、昔人が天からの恵みだと舞い上がったように、ぼくもその身を晒して空の涙の勢いに飲まれる。漂う匂いを目一杯肺に溜める。あの匂い、ペトリコールと言って、雨が地面に落ちて弾けた時に、その場の匂いも巻き込んで舞い上がった、単なる土とかアスファルトの匂いにすぎないのだけれど、ぼくにとっては遠い空の匂いだ。空の一部になって、ぼくは誰にも行けない場所にいるような錯覚をする。雨音と絶え間なく視界を仕切る水がぼくを外界から遮断することも相まって、普段は得られない幸福に満たされる。

感受性は常に不均衡なところにあるけれど、この変態じみた行為だけはいつだってぼくの拠り所だ。たとえどの場所どの時でも、馬鹿に冷たい雨がぼくの全部を洗い流して、現実と反比例して晴々しさをもたらす。

世界に切り取られた錯覚に浸る。ちょっと愚からしいが、その憂いも忘れる程に、雨は僕を満たす。