夜の左手

夜中に酒を飲みながら映画を観た後、また新しい酒を持ってベランダで煙草を吸うのが日課になっている。流石に寒くて手の可動域がじわじわと絞られていくが、ラッキーストライクの誘惑には勝てないので我慢。

都会といえど夜中2時にもなれば人通りは滅多になくて、病院が近いから救急車と、あとはゴミ収集車が駆けて行ったりくらいのもので、比較的に静かで落ち着けるから、割とこの時間が気に入っている。音楽にも冷静に向き合える。人でごった返した通学の地下鉄とは大違い。

自分の家は八階にあって、高所恐怖症の自分は柵にもたれかかるなんてことができなかったのだけれど、最近は何故かある程度ましになってきて、暇潰しに下を覗いたりしてみている。理由はわからない。

それにしても、意外と八階って高くない。火事になって追い詰められた人間は地上が近く見えて飛び降りてしまうことが稀にあるらしいが、これだけの高さなら何となく気持ちがわかる。

ただまあ、死ぬんだけどね。普通に。ひゅん、ばん、びちゃあ。

呆気なく人が死ぬということを自分は知っていたはずだけれど、それでも他人の喪失は慣れないし、受け入れられない。

だって消えるんだぜ、一瞬で。それ儚いとか憐れだとか、そういうのでひとまとめにするのは傲慢だと思う。その人を勝手に儚くして、まるでチリが風に吹かれたような物言いで、そんなのは嫌いだ。ただでも、本当に一瞬で消えてしまうのは受け入れられない。

少し話が変わるが、祖父の死が電話一本で知らされたのがあまりにもトラウマだ。夕飯の支度をしていた時、母がまず「ごめんな」から話を切り出したのが、とても怖かった。救急車にも自力で乗ったと聞いていたから、然程覚悟もなかった。それがあの「ごめんな」で全部簡単に消え去って、本当に怖くて悲しかった。

チバさんだってそうだ。Twitterの「大切なお知らせ」で済まされた。あんな画像一枚で自分の憧れがこの世界から消えてしまったことが、とても怖かったし、あまりにも無情だった。あの無機質なフォントが、今でも見ると心臓が止まりそうになる。

陳腐な感情だと思う。しかしそれがあまりにも自分の中でリアルを増してきて、耐えきれない。じわじわと死人に引かれるような感覚がする。

恐怖と同時に、喪失が許せない。世界をこんな風に作ったのはどこのどいつだ。

もうこんな思いをするのなら、いっそ死んでしまうかとも思う。思うだけで実行するかと言われると、別にしない。悲しくて怖いことが存在すると同時に、楽しいことは楽しいままだ。だから簡単に自分が喪失してしまう側に回ることはないと思う。

ただ自分ではどうしようもないものが、漠然と前に立っている。これをどうすれば良いのかわからない。例えば割と困難なトラブルがあったとしても、それは事象として存在する以上何とでもなるし、何ともならなくても根拠のない自信が湧いたりもする。ただシステム式に、人間はこうだと定められているのを思い知ると、言葉にはできない無力感に襲われる。

考えるなと言われても、しかしそれは自分たちも例外ではなくて、その上に成り立つのが全てだと思うと、途端に何もかもが怖い。

そういうのを忘れたくて音楽をやっている。本も読むし、映画も観る。ただここ最近、恐怖が抑えきれない。

そんなものを抱えつつ、明日(というか今日)はライブ。全部を帳消しにしてしまいたい。