研究と欠落

授業で小説の書き方を学んでいる。

別に物書きを目指しているわけでもないが、本は人より読む方だし、折角機会があるなら物語の構築方法は学んでおきたい。ルーツになりうる一つを作り手の視点で解剖するというのは、今後の人生において必要とは言わずとも、ぼくが最も望む知的財産にはなる。何より楽しい。楽しいことはやはり楽しい。小泉進次郎さんも仰天の言葉だが、楽しいを楽しいと感じることを、人々はシカトしがちだと思う。特にライブなんか、終わった後は「楽しかった」と言う人間は多いが、演っている時は楽しそうに見えない。楽しいの余韻を感じる為にそれに挑んでいるようでもったいない。やっぱりリアルタイムで享受するのが一番だと思う。楽しいという感情が湧き出る瞬間から余韻が失せるまで。それを全て感じ取って楽しいと言えるのが一番だ。

それはさておき、音楽と小説では全く動員する創造力が変わって来る。詩と物語。似て非なるもの、というか全然違う。両方に携われば尚更それを感じる。簡単なところで言えば、物語は連続性が緻密だ。当たり前だが、急に話を飛ばせない。物語という言葉の羅列は、詩よりもずっとディテールが細かい。語彙をすり減らす。

プロットが必要というのも違う。設計図をあらかじめ用意するというのは、パブロック愛好家が聞いたら卒倒しそうだ。

そう、プロット。ここがかなり重要。小説の独創性は、まずはここで発揮されるのだと思う。で、授業の話に戻る。

創造力が豊かとは、独創性とはかけ離れた言葉なのだと感じた。いや、そんなはずはないのだが、そう考える人間も一定数いるのだと思い知った。

後ろの席に、いかにもカースト上位といった女子3人組がいるのだが、そのうちの1人が「私創造力豊か過ぎてストーリーすぐ浮かぶ!」と言いながら、陳腐なプロットを語っていた。陳腐すぎて内容すら覚えていない。

もう一度言う。創造力が豊かとは、独創性とはかけ離れた言葉なのだと感じた。いや、そんなはずはない。創造力という言葉は独創性が内包されて初めて成立する。あの子がやっていたのは、どこかで聞いた話を記憶の底から引きずりだして、もう一度構築すること。単なるコピーだ。なんかプラスチックスみたいなことを言ってるな。けれど、そんなものを創造力と一緒くたにされるのは困る。侮辱だ。

創造力を欠いている人間は、得てして感受性も乏しい。陳腐でありふれた感性をしているから、摂取するものも普遍的。そうなると生み出すものもそれと同等か、もしくはそれ以下の劣悪な模造品だ。

こういう人たちは小説や美術品を見ても、よく「わからない」という。それはまあ良い。ぼくにも「なにこれ?」というものはある。ただそこで自らの感受性の欠落を認めるか否かで話が変わってくる。「わからんからこれは駄目なもの」と言うか、「こんな世界もあるんだな、自分はまだまだだな」と思うか、これだけで全然違う。

感受性の欠落。ぼくの人生においてこれを認めない人間は片っ端から切ってきた。ああいう奴らは心底不快だし、もうはっきり言うが性格が悪い。クソだ。

理解が自らのテリトリーから外れると、途端に排他の対象にする。そういうのもあるんだね、くらいに留めれば良いし、折角ならそういうのを嗜むくらいの余裕を手に入れたい。

話を戻すと、小説に限らず何かを解剖して研究するというのは、目に見えるもの、届く範囲である最低限の情報だけを得るよりもずっと価値のある財産になる。それこそ感性の拡大にも繋がるだろうし。

どうせならこの世のものを全部楽しんでみたい、というのはわがままだろうか。