断絶、あるいは収束

随分と前に「終わってたまるか」という言葉を、まるで呪詛のように頭の中で唱え、反芻させていたことを思い出した。その時はもうそんな言葉に意味も言霊も無く、ぼくは既に終わっていたと思う。寧ろ、その時にはもう、実は自身が腐りゆく自覚があった。

今、実行している生き方を選択しようとしていた当時のぼくは、その時とっくに死んでいた。誰かがぼくの人生から消え去り、それでもその世界で懸命に生きようとしたけれど、まったく無理な話だった。

ぼくはいつだって、一人で生きられた試しがない。孤独に縋るのが好きなくせに、その中で何一つ成し遂げたことはない。本も、映画も、ゲームも、音楽でさえも、それらの孤独の持久力を頼り、言い訳がましく利用してきた。どうしようもない人間だ。

ぼくは生まれ持った性格なのか、正しくいられなかった。痛みを呪い続けて、人目に付かぬところで叫び散らし、自己を繋ぎ止めていた。そうやって自分で自分を扇動しなければ、意識して楽観主義を気取るのも辛かった。

ぼくは「終わってたまるか」なんて言葉を使う資格は無い。それは意図に反して終わりに導かれた人間が使うものであって、初めから先の無いぼくが言葉にして良いものではない。

いつだってわかっていた。ぼくがどんな人間であるかを。それでも、ぼくはぼくである事を止めたりしなかった。

誰も間違って生きているつもりなんてない。自分の正しさを持って世界を跋扈しているのは、例えどんな聖人と呼ばれた人間でも変わりはない。誰が他人から指をさされて、それだけで自分を止めたりするか。

ぼくがやらなくちゃいけないことは、とにかくぼくとして生きること。頑固とか意地張りとか言われるかもしれないけれど、しかしそうやって生きてやらないと、死にたくなってもなお生き続けた過去のぼくたちに示しがつかない。

このブログという言葉の体系は、ぼくにとっては独壇場だと最初に書いた気がするけれど、ある意味では宣言的な意義もあるのだと思う。

これらに反したら、ぼくがとうとう死ぬ時だ。それが言葉の通りであろうと、概念的なことであろうと、必ずそうなる。

それを踏まえて死にたくないな、と一言にすれば語弊がある。時折死にたくなるぼくをやめたくない、というのが正しい。ぼくが戦い続けている証拠だから。

何を言われてもこれだけは変わらない。醜いと蔑まれようと、頭が悪いと罵られようと、ぼくがぼくの延長線であることを忘れないで、必死に生きる。