「同じ素材でできている」世界:アニメ版ハーモニー

あの少女は、どこへ向かったのだろう。それはきっと、彼女たちにとって地獄であるこの世界。

さて、アニメ版ハーモニーの話をしようと思うのだが、ネタバレ注意である。どうか閲覧にはお気をつけて。

アニメ版を最初に見たのはいつだったか。もうその時の印象なんて忘れたが、n回目の原作巡りの後ふと思い立ち、バイト先のレンタルビデオ屋で取り寄せて、もう一度見ることにした。

アニメの描写や作画は美しさを内包していたものの、特段目を見張るものがあった訳ではない。しかし、これは確かに伊藤計劃氏のミームを、安直ながらも世のぼくたちに引き継がせようとした作品だ。そして、彼の追悼作品でもある。

確かに小さな差異は所々、世界観を壊さぬ程度に配置されている。「一人はみんなのために、みんなは一人のために」が、ミァハがトァンに教授した言葉としてではなく、空港で流れる生府のプロパガンダ的な放送として使用されていたり、キアンとトァンが食事したビルが、原作では白塗りで、外からは窓が見えない仕様だったのに対し、アニメでは薄いピンクで窓もある。キアンは検体の事を知っていたし、その後カプレーゼに突っ込まず、床に突っ伏してあの言葉を繰り返す。バグダッド郊外の食事所でメモを燃やさないし、そこでの食事シーンも割愛されていたから、伴って料理も魚ではなくなっていた。付け加えられたものといえば、やはり印象的なのは、トァンが「愛していた」と述べるシーンだろうか。だがあのシーン、少し不自然なカットであったから、それは後程の考察に回すとする。

ここまでいくつか連ねた原作との変更点だが、そんなものは省略、もしくは付け加えられた、ほんの少しのディテールの一部に過ぎない。これは先ほども述べた通り、彼のミーム継承の推奨と、追悼の念が込められた作品なのだ。

ぼくはこの間、スパロボの登場人物が語るはっきりとした状況説明を好かないと言った。アニメでもやっぱりそのアレルギーは適用されるのだけれど、この作品においてかなりの割合を占めるトァンの独白は、全くなんの拒絶反応も示さなかった。決して原作を敬愛しているから贔屓しているとか、そんなのではない。この気持ちは確かに原作への愛が発端だけれど、製作者側も同じように、原作に対して強大な愛を持っていることが感じられるのだ。

簡単なやり方ではあったが、それは確実な方法だった。製作者は彼の言葉を出来るだけ崩さず、ひたすらトァンに語らせるという手段を取ったのだ。ほとんど純粋な伊藤計劃氏の言葉を振り撒き、彼のミームの切れ端を見せるやり方。きっと彼の綴る言葉にこそ力があるのだと考えた結果、下手に手を加えて評価を傷付けるよりも、言葉そのままをちらつかせて、彼の世界に言葉のごく断片を使って引き込もうとしたのだ。これは伊藤計劃氏のミームに浸るための、ちょっとした予告編なのだろう。

さあ、次には「愛していた」の考察に移ろう。あのシーン、ちょっとばかり不自然なカットに移っての台詞だった。ぼくは、あれは単純に製作者の声なんだと思う。確かにぼくたちは伊藤計劃氏の綴る物語に惹かれ、きっと当時、彼の展開する世界にどっぷりと浸かっていた人々は、早逝の報に深く彼を悼んだだろう。彼のカリスマに引っ張られることを愛と形容して良いものか。ぼくは良いと思う。確かに愛が心に根付いていて、というか、ミームの根源自体、愛がなければ成り立たないものかもしれない。明日からぼくは伊藤計劃トリビュートを読み進めるから、その点は日課の読書で探ろうと思う。

ぼくたちは少女だった。「ハーモニー」を鑑賞していたのではない。トァンではなく、伊藤計劃氏が遺した、彼の切り売りした人生の入り口を見ていたのだ。ハーモニーの世界とて、着想はぼくたちの世界である現実しか得られない。同じ素材でできた世界に、彼の描いた未来を秘めた世界に、もう彼のいなくなってしまった世界に、テキストを眺めていた少女=ぼくたちは帰ったのだ。最後のあのシーンは、製作者から伊藤計劃氏への追悼メッセージなのではないかと。

彼が存命ならば、ぼくはどんな世界を見られただろう。しかし、彼はもういない。だからぼくは<harmony/>の文字を看取った後、立ち上がって駆け出さなくちゃならない。

彼がとうとうぼくを形作るようになった世界。どこまで行こう。

ハレルヤ。