誰の顔もしていない

戦争は女の顔をしていないを再読中。今にこそ読むべきだと思ったので、のんびりと電車に揺られながら、鉛玉の飛び交う現実を傍らにページをめくる日々。

人には人の人生があるという事実が、今の情勢ではあまりにも憎たらしい。いくら戦争が嫌いと言っても、それが存在する世界でぼくは家に帰ってゲームをするし、小説を読むし、学校に行って音楽や文学を学ぶ。ぼくの住む場所は今のところ侵略なんて蛮行を受けてはいないから娯楽だなんだを謳歌しているけれど、何をしても戦争と他人行儀な気がして、時折当事者や世界に対して申し訳なくなる。

平和ボケを決め込んだぼくは、とうとうこの本を読んでいても、結局自分のことを思った。正しくは忘れたいことだが、過去の自分を偲ぶと考えればその通りだろう。

多分1週間もしない程度に遡るが、久々にある人の名前を聞いた。中学の頃に所属していた剣道部で外部指導員をしていた警察官の名前。ぼくは色々あってそいつとそこの家族が大嫌いなのだけど、その名を口にしたぼくの母親も嫌いで、ぼくがトラウマ的に話を聞きたがらないのも知っている。何故そいつの話題が出たのかと言うと、なんでも母親の職場の方の夫も警察官らしく、まさかの剣道八段。とんでもない実力者だ。ぼくは二段持ち程度だけれど、その段位がどれだけの苦労を経なければいけないかくらいは知っているから、親からその話を聞いた時、流石に驚いて声を上げた。

ここまでの実力者ともなると、どうやら顔も広いようで、嫌いな警察官の名前も知っていた。

そいつは話題の中でこう言われていた。「あいつは剣道で飯を食っていて、警察官ではない」と。

だろうな。警察官ともあろう人間が、あんな馬鹿で間抜けな訳がないし。と、同僚からも疎まれていることを考えると、内心少し楽になった気もした。

その安心で気を抜いたおかげか、戦争の本でフラッシュバックする始末。何なんだ、どこまで着いてきやがる。

ぼくは途端に思った。それまで語られなかった女の戦争の事実を書き溜めたこの本だが、ぼくの物語にするには地味すぎ、忘れるには辛すぎた体験を、どのように昇華すれば良いのだろう、と。

人間、いつだって他人の過去には他人行儀だ。そうならなかったのがこの本で、著者はいつだって世界と、過去と真摯に向き合い続けたのだろう。

ぼくはいつでも世界にも過去にも無礼だ。情勢は全部スクリーンの静止画、あるいは加工や調整の入った動画でしか見ない。簡単に過去を懐かしんで、あの頃は良かった、でもあれは辛かった、なんて好き勝手に過去を過去たらしめる。そして呪う。

ぼくの人生は一体、どんな表情を浮かべているだろう。最期に誰かが語った時、それは誰の顔だろう。きっと誰の顔もしていない。誰にも汲み取られやしない。

死に際のどうこう別に構わない。死んだら何もわからないし、残る物は灰だけ。けれど生きている内に、このどうしようもなくなった過去の事実が報われたりしないものか。自己解決でも構わないし、恨みが晴らされるような形でも良い。

きっとありえない。ありえないのだけれど、それでも考える。

また個人的な悲惨に身を浸し、もっと残酷な現実から目を背ける朝の車両内。今死んだら、人生はぼくの顔のままだろうか。