仔牛肉の煮込み:ぼくらの解釈

伊藤計劃氏が原作の映像作品は、屍者の帝国以外の二作品は鑑賞している。何故それだけ手を付けないのか。理由は後程に回すとし、それを間違いだとつい先程悟った。

唐突ではあるが、ブランケットと言うフランス料理をご存知だろうか。Googleで検索をかけてみれば、レシピをはじめとした料理の概要がずらりと並ぶだろうが、実はこの料理がはじめに載ったエスコフィエという本には、「この料理は白い状態の煮込み料理である」くらいしか書いていなかったらしい。そこから人それぞれの解釈が生まれ、各々のブランケットで正解を競い合う大会まであるとか。

これが一体、屍者の帝国と何の関係があるのか。単なるこじ付けになるかもしれないが、ぼくは思ったのだ。屍者の帝国エスコフィエだったのではないか、と。

そもそもぼくが屍者の帝国の映画版に蓋をしてきた理由として、原作からのとある改変が、ぼくにとってはかなり大きかったという部分だ。

主人公のワトソンと屍者のフライデーが、原作では単なる支給品とその主人でしかなかったのだが、映画ではなんとフライデーが親友の死体で、ワトソンはそれを蘇らせたという設定が。ぼくは原作の二人の関係性に作品としてのメッセージ性を感じられたから、そこを削がれて少し観る気が失せていた。

間違いだった。大体、屍者の帝国はプロローグ部分を伊藤計劃氏が生前に執筆し、その後は円城塔氏が引き継いだものだ。即ち「19世紀末に死体が蘇生する技術ができて、それらが産業やらを支えるようになった話ですよ」という漠然とした内容だけ伊藤計劃氏から与えられて綴られた物語ということ。だから、そもそも改変もクソもない。屍者達の帝国という設定だけを元にしたアンソロジーがあるくらいだ。トリビュートの中にも、そんな作品があったっけ。

要するに屍者の帝国は文字通りどうとでもなり得る作品であり、それぞれの筋書きがあって良いんじゃないかと。邪険にするのは過ちなんじゃないかと。ぼくは馬鹿だった。

と、ここで予告編を視聴。良ければ皆さんも是非。

https://youtu.be/7MmFQxiroac

ぼくは、伊藤計劃作品のアニメは、どれも様々な形で伊藤計劃氏へのリスペクトが込められており、尚且つミームを「そのまま」にした作品だと思う。改変は大小あろうとも、あくまでも伊藤計劃作品である事を忘れていない。伊藤計劃氏は彼以前か以後か、そんな風にわけられる程SF界隈に多大な影響を与え、多数の作家、アーティスト達が彼のミームを受け継ごうとした。ミームは繊細だ。これだけはブランケットのようにはいかない。難解ではあるけれど、彼自身の創作遺伝子は捻じ曲げられてはならないものだ。

きっと、屍者の帝国もそんな仕上がりになっているだろう。そして、予告編のコメント欄を見て気付いたのだが、やはりこれも追悼作なのだろう。

「ただ君にもう一度会いたかった。聞かせて欲しかった。君の言葉の続きを」

プロローグで途切れた伊藤計劃氏の屍者の帝国。親友である円城塔氏が書き継いだ屍者の帝国。彼のミームを継ごうと集った者たちの屍者の帝国。彼の世界を可視化した屍者の帝国

どれほど作品が生まれても、続く言葉はやはり彼の言葉が良かった。原作にないこの台詞は、早逝した彼への想いなのだろう。

ぼくは今、彼の死後にいる。遺されたエスコフィエとミームが、ぼくの人生の大切な一部となっている。

彼の言葉の続きは多分、擬似霊素を入れ込んだって聞けない。ザ・ワンでもあるまいし。だから彼のミームを誤解なく紐解いて、出来るだけ彼に近付きたい。続きが見られないのなら、せめて遺されたもので彼を感じていたい。

いつかは彼のミームと自身のミームが交差して、何かを創作できれば良いな。