力の様相:「新世界より」を読み終えて

「力」の存在意義とは、何なのだろうか。

遠い未来。ほとんどの人間が「呪力」と呼ばれる力を持ち、限られたテリトリーの中で生活を営む世界。

新世界より」とんでもなく面白かった。クリーチャー要素、謎の力、と、一見ファンタジーとも取れる世界観ではあるが、やっぱりSFだった。

ぼくは専門家のような、あらゆる場面を細分化して、徹底的な考察を交えるなんて芸当は、到底できない。だから話題はかなり絞られてしまうが、そもそもこいつは自己満足の域に留まったブログであるので、どうかご了承を。

まず、この作品は膨大なSF要素を取り入れておきながら、その仕上がりはまるで完璧なのだ。ユートピア、クリーチャー、サイコキネシス、ポストアポカリプスetc...。それだけでも扱いが難しい題材たちを一気に入れ込み、なんと、それでも均衡を保たせる。やはり小説家はすごい。発想と語彙、二つの才能を持ち合わせた天才にしか成せない所業だ。

最近、芥川龍之介の「奉教人の死」について、志賀直哉の放った批判の話を授業で聞いた。背負い投げを食らわすようなやり方は、結末ばかりに目がいくと。ぼくはその批判をごもっともだと思ったし、「新世界より」を読んだ後は、強くそれを信じ込んだ。クライマックスに近付くにつれ、最後の最後に詰まっているであろう真実に強く惹かれる気持ちと同時に、そこに至るまでの主人公のあらゆる事象についてもう一度巡りたいと思ったのだ。この小説は、不穏を振りまくのが上手すぎる。登場人物の、主人公から見た微かな表情の移ろい。たった一文、一言に至るまでも、ぼくは心臓が跳ね上がる思いだった。そして、ばらばらにされた不穏を繋ぎ合わせてできた真実は、まったく思わぬところから来たのではないが、予想の範疇からは一歩引いた場所にある。やはり、簡単には終わらせてくれない。

ここからは、ぼくの絞った話題について。

愧死機構について、ぼくらはいつか必要とする日が来るのか、と。

誰かを攻撃することはできず、それでも、もし誰かを殺したとなれば、責任としてあの世への旅路にご一緒することになる、摩訶不思議な機構。

サイコキネシスなんかなくても、人間は未だに戦争を終わらせようとしない。サイコキネシスなんかなくても、人間は未だに肌の色で、生まれた場所で、性別で差別をする。

しかし、攻撃抑制がDNAに刷り込まれたとしたら、そんなものとは無縁の世界になる。本当にそんな終わらせ方は正しいのか、ぼくにはわからない。

主人公が古代人、つまりぼくたち現代人の所業を理解できないと、嫌悪する場面がいくつかあった。他人を傷つけ慣れない人には、多分そう感じるのだと思う。しかし、現に他人を殺す社会があって、ぼくらはネットやテレビで、それを生活の傍らとする。だって、傷つける社会に慣れているから。

ぼくらはきっと、ぼくらという力を持て余している。「新世界より」では、サイコキネシスという強大な力を持て余した人々が、結局は無理矢理な抑制で生きながらえたという歴史の元、成り立った世界だった。ぼくらも持て余したぼくらを抑制しなければ、この先みんな死ぬのだろうか。

散々考えられてきたことだと思う。だから、ぼくなりに答えを出すため、沢山のことを知りたい。ぼくがぼくである所以とか、ぼくらの力の意義とか。絶望しようが、多分ぼくは思考をやめない。

新世界は、まだまだ遠そうだし。