ガンダムに学ぶみっともないこと

Zガンダムでエマさんが「男のヒステリーはみっともないわよ」と言っていた。わかる。というか、性別限らずヒステリーはみっともない。ぱっと出の感情にその後の言動行動のコントロールを明け渡すのは、あまりにも情けない。

その流れを踏むとF91でザビーネが言っていた「感情を処理できん人類はゴミだと教えたはずだがな」も本当その通りで、アンナマリーはベラ(セシリー)と絡んでいるザビーネに嫉妬して寝返り、結局はザビーネに殺されるわけで。感情とは時に命取り。

この台詞のポイントは、ザビーネが「感情を処理」と形容しているところだ。別に抑えろとも言っていないし、無感情になれとも言っていない。感情は生きている以上生まれるものだから、それと上手く付き合えということだ。この台詞、割とぼくは立ち返って反芻したりしている。

とはいえアンナマリーは16歳。モラトリアムの真っ只中で、感情の処理が覚束ないのはまあ、さほど責められたものでもない。細かい話は抜きにすると、後に感情のままに地球を滅ぼそうとするドゥガチに降ったザビーネの方が責められるべきだろう。後々拷問で頭がおかしくなって感情が剥き出しになるのも、皮肉が効いている。

ザビーネの矛盾は置いておいて、アンナマリーの話に戻ると、別にあの寝返りもヒステリックさも、16ならば大して珍しいものではない。エマさんの「みっともない」も親を目の前で殺されたカミーユにかけたものだから、なんならエマさんが悪魔すぎる。

感情の処理ができないのがみっともないというガンダムのキャラは、皆んな大人だ。彼ら彼女らがそれをできているかと問われれば頷ききれないけど。ただ、やっぱりあの人たちはどこかで図らずとも生まれ出る感情と上手く付き合っている。

で、ぼくは今年21。どちらかといえばエマさんやザビーネの側に回るわけで、残念ながらモラトリアム人間を卒業していなければならないのだけど、本当に大丈夫か時折不安になる。

上手い具合に感情とやっていけているかな。それならに努力はしているつもり。シンプルなことから。例えば嫌なことがあっても音楽を聴いたり、美味しいものを食べたり、好きなものを買ったり、ゲームをしてみたり、本を読んでみたり、映画を観たり。趣味が多いと助かるな。

まあでも、同じ年齢層でさして上手いやつがいるかと言われればそうでもない。なんならザビーネの言う「ゴミ」の方が多いんだろうな、と思う。

書いていて思ったけれど、かなりきつい言葉だな、ゴミって。けれど、感情を処理しきれずに回りに不機嫌やネガティブを振り撒くやつはゴミと言われても仕方ないだろうし、そういうのは小学生や中学生でやめてほしい。

こういうのがみっともないから、あまり嫌なことも自分の考えも口に出さなくなったな。せいぜい物好きしか見ないブログに、独り言程度につらつらと書いているくらい。しかもここに関しては「嫌なら見るな。嫌なら何も言うな」と言っているし。このやり方も「感情の処理」の一環なんだろうな。

そう考えると、覚束なくともなんだか上手くやれている気がする。完璧とは言えないけれど、コツコツ少しずつ近付く方が性に合う。

泣いて構ってもらえるのは赤子まで。どっかで聴いた台詞。肝に銘じておこう。

 



 

そういえば

メタルギアの新作、というかリメイクの発表が来た。スネークイーターのリメイクか。3DSでもパチンコでも大忙しですね、ネイキッドさん。

どうやらPS4のリリースは今のところなく、PS5のみらしい。とはいえ、PS5があってもぼくは買うだろうか。複雑だな。

いかんせん、ここ数年における企業としてのKONAMIのムーヴメントが酷過ぎる。小島監督を追い出したのもそうだけれど、最近ではウマ娘を潰そうと法務部が躍起になっている。何なんだお前。

KONAMIといえば遊戯王も有名だっけ。テレビゲームに限らずカードゲームも展開しているが、遊戯王もいい噂、聞かないな。

ぼくの中で、KONAMIはもう人を楽しませるという精神性を失った企業というイメージが付いてしまっている。パチンコメタルギア、意味が未だわかってない。ウマ娘だって、言い訳がましく「人の楽しみを奪いたいわけじゃない」みたいなこと言っていたけど、お前サービス終了要求してんじゃねえか。この二枚舌が。

というわけで、メタルギアを買いたいと思わない。小島監督の残したブランドで金を取ろうとしているように思える。いや、そんなことはないんだろうけど、あまりにもぼくの中でKONAMIのイメージダウンが酷い。

大体、昔から自分の企業名間違えるような会社だしな。コンマイて。

小島監督以外のメタルギアを受け付けないわけではない。こちとらポータブルオプスもライジングもプレイしてるんだぞ。あと小島監督本人も「自分以外の人間のメタルギアも作られるだろう」的なことを言っていたから、監督以外のメタルギアを否定する気はない。

ただお前なんだよ。コンマイ。授賞式に小島監督を出さなかったお前ら。メタルギアでゾンビゲー作ったお前ら。ゾンビゲーにコジプロのフォックスエンジン使ったお前ら。そんな企業から誰がゲームを買いたいんだ。

ぼくは今の開発チームから監督に対する声明が出るまで、多分買わない。PS5が手に入ったとしても。

というか、PS5買ったらデススト2買うわ。ぼくはサムになるぞ。

タイラーがほしい

人生に対する卓見がほしい。タイラー・ダーデンがほしい。御冷ミァハがほしい。一方的にそいつを水先案内人だと思える人間が、人生にほしい。

そんなやつ都合よくいないし、いる人の方が少ない。それはそうなんだけれど、諦めきれない自分がいる。こいつがこう言えばその通りなんだろうな、みたいな安心感。それを持った人間が人生に現れないだろうか。

いないからこんなブログ書いてんだろうな。宗教は好きじゃないし、人の良い芸能人なんかを好くピュアな感性もどこかに落とした。それにぼくがほしいのは偶像ではなくて、身近な導き手。

正直言うと、恋人は別に躍起になるほど欲しくはない。寂しければ映画を観るし本を読むから、特段飢えているわけでもない。ただ映画を観てタイラーが欲しくなり、本を読んでミァハが欲しくなる。悪循環であるのは事実。悲しくなってきたな。早くこの話を終えたい。終えて本か映画を観たい。

これあれだな。映画や小説見ずに、現実見ろって話だな。やめようか、この話題。

「ワイルドカード」は結局なんだったのかを考える

ジェイソン・ステイサムの名作と言えば、多分人それぞれ。個人的にはメカニック辺りが好き。

ステイサムといえば言わずもがなそのスレンダーかつ、それでもマッチョな肉体を振り回して観客に魅せるアクションが売りの一つではあるのだけれど、そいつが控えめなハードボイルド映画が存在する。用心棒として日銭を稼ぎ、傍らでギャンブル中毒を引きずる元特殊部隊の男の話。「ワイルド・カード」である。

この作品だが、かなり評価が割れている。高評価だな、と思ったコメントは大体ステイサム大好き人間が持ち上げているだけだったりして、対して大半の意見が「アクションも少ないし、終わりもあっさりしていて物足りない」というもの。確かにそう。数日内にできた友達から金を貰って、自分が嫌う土地から抜け出すというオチに、何を見出せばよいのか。それはそれはかなり難しい。

あ、ちなみにネタバレ注意。遅いか。

原作はウィリアム・ゴールドマンの小説らしいが、日本版もないし、同じく原作を小説とするファイト・クラブのように、わかりやすく文学性がにじんでいるわけでもない。

じゃあワイルド・カードは結局何だったんですかね。

ファイト・クラブはわかりやすい。ぼくらのような一般市民の視点で物質主義から連なる資本主義を解析し、そのイデオロギーへの依存性に対する警鐘を行った作品(だとぼくは思っている)だ。一方でワイルド・カードはなかなかそういった主題が見つからない。

そもそも名作と比べること自体ナンセンスなのだろう。しかし名作こそプロット、脚本、方向性が手本にされるべきだし、映画を解剖する手がかりには比較が一番だ。

ワイルド・カードは、アクション映画として特にめぼしいという訳でもない。特段カッコいステイサムが見られるわけでもない。主人公に何か大きな目標が序盤に設定されるわけでもない。緩慢にステイサムの時間が過ぎて、後々ギャンブルで金を無くして酔いつぶれる。

とにかく全体的にまどろっこしいのだ。話の主題が見えないし、とにかく何も進まない。もし映画館で見ていたら、逆に続きが気になってイライラして寝ないと思う。

そしてそんなワイルド・カードだが、メタルギア風に言うと「追い込まれた狐はジャッカルより凶暴だ」を描きたかったんじゃないかと。

ステイサム演じる主人公は、大金持ちから用心棒の報酬として大金とステイサムが滞在先として夢見ていた島への航空券やらを最後にもらう。しかしそこにステイサムへの復讐に燃える因縁のマフィアが現れるも、それを全員ぶっ殺す。それまで殺しをしなかったのに。

目標の達成を前にすると、人間はなりふり構わなくなる。そんな陳腐な結末とメッセージ。頑張って汲み取れるのはそんなものだろうか。ぼくの理解力の限界。

この映画の魅力は正直言って少ない。プレゼンしろと言われたらすごく困る。かなり困る。アクションも少ないし、ギャンブルのシーンも見所ないし。変なステイサムを観たいならおすすめ。

そういえば、キャッシュ・トラックまだ観ていなかったっけ。最後にステイサムを観たのは2周目のエクスペンダブルズ3だったので、自分のステイサム像を更新しよう。

なんだったのかを考えずに済む。それがステイサム映画だということを再認識したい。

 

カセキホリダー

体験版しかプレイした記憶がない。製品版は買わず、マクドナルドに行くたびに母親の隣でDSをWi-Fiに繋ぎ、その場限りの楽しみを味わっていた。そのカセキホリダーも、高校以来の友人が中古で購入していたのをInstagramで見かけた。何故今更。

とか言っても、何となく気持ちはわかってしまう。ぼくもこの間、衝動的にドラゴンボールヒーローズがプレイしたくなり(それも3DS版)、わざわざ机のどこかしらから引っ張り出して触ってみたのだが、どのようなデッキをどのような構成で組んでいたのかまったくわからなくなり、カードを眺めるだけでやめた。思い出を掘り起こすだけ掘り起こして、由来不明の引っ掻き傷程度の感傷を少しばかり付けられただけ。記憶のカセキホリダー

そして今し方、僕は別の化石を掘り出した。これは何となく発掘したわけではなく必要だから探し当てたのだが、なかなかの年季もの。小学生の頃、合唱部にいた時に世話になった楽譜だ。というのも、授業で楽譜が必要になって新しく買う金がない為の手段だったのだが、開けてみると懐かしい書き込みばかり。しかも一見意味不明なのだが、ぼくの脳にはどうやら未だに解読コードが刻み込まれていたらしく、歌い方のニュアンスや子音の使い方。ブレスのタイミングまでほとんどが読み取れた。

なんて真摯なやつ、と小学生のぼくに声をかけてやりたくなった。この頃は勉強そっちのけで歌やダンスに夢中だった。どこから湧いてくるのかは知らないが、無尽蔵に現れる狂気すら滲む衝動が、ぼくをひたすらに突き動かしていた気がする。わけもないのにひたすら歌って踊る。何が楽しかったのか、今のぼくにはわからない。ただこの内から湧き出る穢れのない欲求が尽きるとは思ってもみなかっただろうし、実際それが尽きてみると、それがどうしてぼくの中にあったのかがわからない。過去のぼくと現実のぼくが剥離している気がする。実際、小さい頃の美声はドブに捨てて、今はマイクと客に向かってがなりたてているし。

あれは誰だったんだろう、とぼんやり考えてみる。攻殻機動隊みたいに、存在しない記憶をどこかで埋め込まれたのかもしれない。そうだと少し怖いが、現実とアニメの区別はまだ付いている。とはいえあれがぼくであった確証というのも、実は薄弱だ。ぼくという人間がどこかで本質からひっくり返ってしまったのか、地続きであることが嘘のように思える。あの頃の屈託のないぼくの笑顔は何処。

古い思い出ってこれだから。拒絶しているわけでもないのに、何となく足枷を付けられた気になる。重たくて痛い。こういうのを抱えて生きていくのが、時折憂鬱の種になったりする。

多分、綺麗すぎるのだろう。あの頃より随分荒んだ自覚はあるし、趣味嗜好も、根幹は変わっていないだろうが、変異は多少なりともある。それも邪な思いたっぷりのものだって。だから小さい頃のぼくに、何となく申し訳なくなる。真っ直ぐやってたのにごめんな、と。

誰かの誇りでありたいと思ったことはない。でも、過去の自分に誇れる人間でありたいとは思う。多分、手遅れだろうか。あの愚直な少年に聞いてみたいもんだ。カセキホリダーを買わなかった、あの少年に。

Don't Think. Feel

好きなようにやれ、そして俺に指図をするな。ではなくて。久々の更新。

Don’t Think.Feel

Don’t Think.Feel

早速だが、タランティーノが好きだ。燃えよドラゴンの台詞をタイトルにしておきながら、タランティーノが好きだと言ってしまう自分。ブルース・リーに喧嘩を売っている訳ではない。

タランティーノの何が好きかというと、無駄ではない無駄が溢れていることだろうか。一番好きな映画であり、人生の教科書の一つとしているパルプ・フィクションの冒頭だとか、レザボア・ドッグスの冒頭もそうだし、ヘイトフル・エイトのイタリア語のくだりとか弾き語りのシーンだとか。

ちなみに有名な話だが、デイジーのギターはマーティン博物館からの借り物だった。そして、本来はレプリカで壊すシーンを撮影するのが、手違いで本物を壊したとか。ギターの破片は出演者のサインが書かれて展示されているらしい。

話が脱線した。なのでもう一度言わせて欲しい。タランティーノ映画の無駄ではない無駄が好きだ。

もう少し詳しく説明しよう。タランティーノ映画は大抵、登場人物が人間味に溢れている。映画批評家はこの「人間味」というワードを多用しがちだが、その言葉の裏には「本性」というディープなニュアンスが込められていることも多い。しかしタランティーノから受け取れる人間味とは、例えばアニメに観る登場人物のぼくらに近いマインドを指して「人間味」と言うのではなく、「こいつらも飯食ってクソして寝てんだな」というリアリティだ。下ネタを吐いて、下品に笑って、豚は汚いから食わず、トイレで新聞を読んで、イタリア語を使いたがって。どうでもいい一面が彼らに表れているからこそ、ぼくらは彼らに共感できる。無駄ではない無駄とはそういうことだ。だからそれについて、深く考える必要ないと思う。

というのも、後輩をパルプ・フィクションの再上映に誘った時に「難しそう」と言っていたから、突然こんなことを言い出したわけで。フィーリングとちょっとした思考で観られるのがタランティーノ映画だぜ。

とにかくまとめると、タランティーノが描く人間の無駄というのは僕らの生活の一部でもあり、そういった端々のリアリティが、映画の主題を引き立たせるということ。

最初からそう言えばいいのだが、無駄が好きなもので。