ブルドーザーが通った気分

バイオハザード:ウェルカム・トゥ・ラクーンシティ」を鑑賞。

感想を書いたのに、下書き保存した瞬間に消えたので、怒りを抱えながらもう一度綴る。ネタバレ注意。だが正直、この作品の感想を2度書くのは苦痛だ。良い点はあったにはあったけど、はっきり言って自分には合わなかったもので。

まず、はっきりとホラーとして見せていたのは良かった。あの原作通りのカットに始まり、隊員の1人が群れに押し潰されて無惨に食いちぎられていく。暗闇で大量のゾンビに出くわし、パニックの中、銃を闇雲に乱射する。これぞゾンビホラーよ。これでいい。これがいい。

次に、クリスとクレアがラクーンシティの養護施設、正体はアンブレラの実験場の出身であり、クレアが時折そこでアンブレラの実験体を見ていたという点も、ホラーの前置きとしての十分な役割を果たしていた。そう、あの原作とは違うリサがバイオ1,2の世界と良い意味でミスマッチで、作品特有のミステリアスさを生み出し、原作に深みを与えていた。

まあ、そんな深み、鑑賞後には埋め立てられるんだけれど。

第一、1と2を一緒にしたのが大間違いだ。映画は2時間。あるいはそれより少し長いか短いか。そんな短時間の中で、ゲーム2本分のストーリーが収まり切る訳がない。良い点で挙げたものは主に序盤。そのインパクトをまったく生かすことなく、ゲームのイースターエッグと慌ただしく回るストーリーに、ひたすら薄っぺらさを感じていた。散りばめた一つ一つの事象に、重みがまったくない。養護施設の真実は薄っぺら。ウェスカーの死も薄っぺら。脱出に至るまでも薄っぺら。ラストシーンも薄っぺら。散らかすだけ散らかして、尻拭い的に消化していく。最初から上映時間を伸ばすなり、二作にするなり、無理に収めてほしくはなかった。やっつけ仕事感。

というか、ウェスカーがFワードを連呼する小物に成り下がっている辺り、最初からそのつもりだったようにも思える。バイオシリーズといえば、アンブレラの陰謀。ウェスカーは原作一作目にあの製薬会社の恐ろしさを見せつけるメッセンジャー的な役割であったのに、本作では金に目が眩んで仲間を裏切り、Fワードを連呼しながら非感染者を殺し、ジルに撃たれてあっさり死亡。陰謀は?

キャラクター改変と言えば、脚本家はレオンが嫌いなのだろうか。確かにレオンは原作でも、最初はあまり格好良いイメージは持てない。なんと言っても、新人のくせして遅刻するような奴だ。だが本作ほど弱々しくはないし、あくまでも主人公の一人なのに、無能具合が酷い。レオンに恨みでもあるのか。ガイア・ギアでシャアに漏らさせた富野監督かよ。

あとジル。誰だお前。ポリコレ配慮か。そうだとしたらF**k. 訳のわからんところで逆差別者の顔色を伺うな。ドラマ版イコライザーが一番狂っていると思うけど、今回も大概にして欲しいレベルだった。いや、ポリコレ配慮かは調べていないからわからないけれど、そうだとしたら続編を見る気が失せる。元々持ち合わせていないけれど。

全体的に見て、原作再現を前面に押し出しているだけで、映画としては駄作に思えた。A寄りのB級映画なら通用しそうなCGも受け付けなかった。バイオだぞ、原作。それに何度でも言うが、これは映画でゲームじゃない。再現は確かに喜ばしい要素だけれど、それだけで良い映画になるなら素人でもできる。映画なら映画にしかできないことをして欲しかった。できないならキャスト全員豆腐にしろ。

面白くない映画は好きだ。だが、中途半端な映画は本当に困る。ライアン・レイノルズの「グリーン・ランタン」イジリと同じようなことしかできない。それすらも難しいかも。

デッドプール。過去に戻ってチケット買うぼくの頭を撃ち抜いてくれ。

どうせ消えない

夢の中で、去年の1月に亡くなった祖父が現れた。

亡くなったのが23日。コロナの所為で、最期は看取れなかった。救急車で運ばれたと聞いた時、母親は奇妙なほどに「大丈夫」と繰り返していた。叔母が119番に電話した後、祖父はバターロールと牛乳を胃袋に押し込み、自力で歩いて車に乗ったと聞いたので、ぼくは安心して夕飯の支度をしていたけど、今思えばそれを聞いた時、既に病院で意識を無くしていたのだろう。

亡くなった後、ぼくは祖父の大事にしていたカメラの一つを貰った。朝4時から近所の緑地公園に出かけて写真を撮るのが祖父の日課で、ぼくにはそんな元気は無いんだけれど、時折同じ場所で写真を撮る。少し古いカメラだが、当時のプロがよく使っていた同じ型らしく、友人に聞いたり調べたりしたところ、なんと50万円以上。オプションのバッテリーが付いていたり望遠レンズもあるから、全部くっつければぼくの両手に100万円相当の代物が抱え込まれることになる。恐ろしい。

祖父の話とか自慢は大好きだった。生まれた島がどんなところだったとか、そのあと家出した話とか、故郷に帰った時に食べた魚が島の魚じゃなかったのを見抜いた話とか、姫路城の綺麗におさまった写真自慢とか。そう、カメラ自慢はいつもしていた。締めくくりの言葉はいつも、「わしが死んだらこのカメラ全部やる」だった。できればそんな日は、来ないでほしかった。

だから夢に現れた時、カメラの話をした。何々を撮った。けれど上手く使いこなせない。はっきりとは覚えていないけど、こんなことを言っていたと思う。祖父は笑っていた。声もあの時のままだった。

目が覚めたとき、夢で出会った祖父は、ぼくの脳溝の皺のパターンでしかないことに絶望した。海馬から記憶を引き出して、勝手に作り上げた偶像でしかないことを恨んだ。

一年が過ぎたのに、ぼくは祖父の死を乗り越えられない。時折強がって救急車に乗る直前に余裕で食事していたことを笑い話にしてみるけど、空虚という言葉に相応しい行為を知る羽目になるだけ。

酒を飲み交わす約束を守れなかった。島に連れていってもらう約束を守れなかった。死んだ時の約束しか守れなかった。

後悔も悲しみも、どうせ一生消えない。けれど果たされた約束のカメラは、呪縛とか戒めとか、そんな風に捉えたくない。ネガティブに捉えるのはぼくの癖だけれど、これだけはそうはさせない。祖父との最期の繋がりだ。

故人に関するスピリチュアルな話は信じない。結局は自身の都合の良い解釈にすり替えて、知り得なかった本当の遺志を、そっちのけにするような真似にも等しいと思うから。

祖父はもういない。そんな世界で、ぼくは繋がりを引っ提げて生きる。消えないならそれでいい。ハナから忘れるつもりはない。

祖父から貰った幸せが、どうか消えませんように。

嫌悪

別に、ぼくはグロい映画とか小説、アニメが好きなのではない。好むテーマを抽出した結果、ほとんどに凄惨な描写が付き纏うのであって、飛び散る血肉や内臓に興奮を覚えているわけではない。

グロいものが苦手なのは一向に構わないと思う。大体、あの手の描写を拒否するのは、人間の生理的な嫌悪として備わっているのが普通。ぼくはまあ、虐殺器官で触れていたロバート・ドワイヤーの一件に興味を持ってしまって、あれは流石にこたえたけれど、映画や本をそれなりに好む質な故、ある程度の耐性が付いてしまった。

ぼくは戦争やSFとか、人々の存在に重くのし掛かるテーマを内包した作品が好きだ。グロは、必須とまではいかないけど、多ジャンルよりはもちろん多い。ただ、やはり好き。時折、そんなぼくをサイコ野郎扱いする人がいるのだけれど、世界で繰り広げられている戦争とか危ぶむべき未来とかに全く無関心な奴らの方がよっぽどサイコ野郎だと思うし、それに、もっと嫌悪すべき人間というのはごまんといる。

ぼくがこの手の話になって、まず一番に嫌悪するものといえば、グロシーンをぶち込めば話に重みを持たせられると勘違いした創作家。たまに見るだろう。死体をめちゃくちゃな有様で描写して、しかしそれ自体に意味はなく、何かしらの糧として主人公やら他の登場人物の経験に蓄積される、みたいな話。これなんか、命を軽々しく見ている証拠じゃないか。死のそれ自体を主眼ではなくスパイスに仕立てて、物語に重みをのし掛けようなんて下品が過ぎるし、想像の世界といえど、パーソナルな視点で命のやり取りを展開されては困る。何かのテーマの下に誰かを殺すなら、それ相応の生命に対する価値観を念頭に置いていてほしいもの。

一応言っておくが、別に、これでホラーやミステリーを否定している訳じゃない。ぼくはハンニバルシリーズだって、ドラマも観るくらいに好きだし、ロバート・ラングドンシリーズも好きだ。しかし、それらは死自体で重みを作ろうとしない。もっと別のところにテーマがあり、生命はまた別の形で大切にされているのだ。

「生命を利用する」作品が、ただ気持ち悪い。簡単に殺しては、軽いテーマに無理に重量を追加しようとする。ふざけた思考だし、正直、そんな自身の願望を好きに要請しまくる作品が面白いとは思えない。

道徳、倫理どうこうは問わないが、自慰的な作品は程々にしていただきたい。

吉日のうちに

ぼくが偏屈的な小説好きなのは、多分友人は皆んな知っていると思う。だから秋学期は小説を書く授業があったので取ろうと思ったのだけれど、抽選で外れた。無念。

しかし、なんとも楽しそうだ。エッセイに始まり、この間の課題は「自分が起きたら○○になっていた」という題材で小説を書く、みたいな授業。受けたくて仕方がない。この間のレポートも「面白いけど、どちらかというとエッセイですね」と先生に言わしめるような人間なんだから、それなりの成績も取れそうだし。

そしてこの課題、個人的にとても良い案が浮かんでいて、なんとなく頭でプロットも組んでしまった。勿論、伊藤計劃トリビュートな作品。書きたい。今は食欲よりもそっちが強い。

というわけで、趣味程度に何か書いてみようと思い立った次第。別に授業じゃなくても小説は書けるんだし。一応公開もする予定だけど、こちらも「見たくなければ見るな」スタンスで。場所はまあ、ここにリンクを貼るとしよう。

それでは、よろしくどうぞ。

物騒な正月

久々の更新。

PlayStation Plusで通称キムタクが如くなんて言われるジャッジアイズがフリープレイで出ていたのだけれど、面白すぎて更新なんて放り出していた。龍が如くシリーズと違って、フィクション極道くさい勢いが抑えられていて、なかなかハードボイルドなストーリー。キムタクもカッコいい。

まあ、ぼくは前回サバゲーの話をすると言ったから、ここでキムタクには少し退場していただいて。

海上自衛隊に友人が一人いて、この間久々に会える事になった。彼にとって久々のシャバだから、彼が一番行きたいところを聞いたらなんとサバゲーと即答。普段海の上でサバイバルしてんだろお前。少しツッコミを入れたかったが、別に断る理由もないのでこちらも二つ返事。

ぼくは基本室内ではスーツを着てゲームをする。しかし今回はなかなかネクタイが上手く整わず、身に付けるのを諦めてグローブをし、グロック17とMP5SD5を担いで行ったら、なんだか洋画で見た強盗みたいな身なりになった。多分ステイサム主演。やられ役。しかしあの室内は、やっぱり長物の扱いがやり辛い。室内はハンドガンに限る。ジョン・ウィックもHK45使ってたし、ぼくも買おうか悩みどころ。

それにしても久々に会ったにせよ、意外と普通に話せるもので。海上自衛隊も色々大変らしく、そもそも守秘義務であまり仕事の中身が話せないところを見れば、やはり公務員とは特有の苦労が垣間見える。給料は高いらしいから、その日も焼肉を奢ってもらった。ごちそうさまでした。

今年の撃ち初めはめちゃくちゃに早かったが、次は大量の知り合いを集めてやってみたいと言う密かな野望。絶対面白い。

新年

あけましておめでとうございます。

12月はとにかく、ライブが楽しかった。来年も何としてでも出場したいもの。

今年はまあ、音楽をいっぱい学ぶなりやるなりと、2回生に上がること、もう少し体力をつけることを目標に。リングフィットを頑張ろう。

1月は早速自衛隊の友達とサバゲーに参る。撃ち初めってワード、物騒だなあ。また帰りにでもサバゲーレポートします。

それでは今年もよろしくどうぞ。

ファッキン倫理

「道徳が支配するその場所に 芸術や文化は育たない その意見に同感」

ぼくも同感。

無意味になる夜

無意味になる夜

ヒップホップやラップがストリートギャングの抗争代わりとして生み出された代物であったことを、ダンスを習いたての時と、この前の大学の授業で聞いた。二度も聞くと流石に信憑性も固まるし、なんなら先ほども少し自分で調べた。

タクシーのカーラジオ的に流されるレコード大賞を目の端にやりながらぼくは夕食をとっていたのだけれど、まあ、なんというか、「当たり障りのない曲」多いなぁと。別に、それがくだらないとか面白みがないとかじじくさいことは言わない。三浦大知くん、普通に好きだし。

ただなんというか、音楽カルチャーが足踏みしている気がしてならない。いや、足踏みしているものばかりが抽出されて消費されている、そんなイメージ。音楽はガムじゃねぇんだぞ。毎年同じような曲が流行っていて、毎年誰かが消えていく。流行が円環だとは思わないし、長い目で見ればここも時代の転換地点なのかもしれない。にしても、あまりにも長いと思うのは気のせいか。

先程のヒップホップ文化の話に戻るが、平穏の渦中ではやはり文化は育たないらしい。差別が横行していた時代、LSDが合法だった時代のアメリカでは、それこそ数えきれないほど多彩なジャンルの音楽が生まれたのに、平和な場所ではこうも行き詰まるのか。まあ、世の中平穏であるはずがなくて、どいつもこいつも平和ボケしてるだけなんだろう。その上ちょっとした倫理観の逸脱には敏感になって、まるで道徳の潔癖症だ。だから音楽も育たない(ように感じる)。

新世界より」で、倫理規定なんてものがあった。言葉の通り倫理が規定になって明文化されたもので、ポストアポカリプスの世界に生きる主人公達を縛り付ける。そう、縛り付けられているのだ。押し付けにも等しい道徳が蔓延っていて、破ってしまえばただでは済まない。多様性だの道徳性だの、声高に叫ぶのは結構。息苦しかったマイノリティな人間が堂々と生きていける。それも結構。むしろ大歓迎。しかし、何でもかんでもセンシティブにするのもいかがなものか。暗黙の倫理規定ってか。破ればネットリンチか何か食らわせるってか。ブルっちまってなんにもできねえや。

エルヴィス・プレスリーが保守の時代に茶の間のTVで堂々と腰を振ったような、それくらいに振り切っていて、パンチのある人間が出ないものか。ぼくもぼくで、ボブ・ディランの方向性が変わってブチ切れるような人間になりたい。ぼくも、これから現れるアーティストの誰かさんも、倫理くそくらえって言えるといいな。ロック万歳。ファッキン倫理。