なんにもない

大学に行った日には書きたいことが積もるのだけれど、こうも刺激のない休日では流石に書き溜めもそこを尽きるもので。人間が豊かである時って、それなりに忙しい時なのだと実感する。

バイトに行って、帰ったらゲームをしたり本を読んだり映画を見たりギターを弾いたり。これを次の授業が始まるまでヘビーローテーションするのだけれど、正直このサイクルが娯楽が持つべき楽しさを保持できるとは到底思えない。ギターに関しては次のライブの練習として必要だが、それ以外に関して、息抜きの手法がとうとう失せる気がする。

映画館に足を運ぶことも考えたが、大学生は金欠にストーキングされやすい体質で、下手に遊びにだって出られない。

冬休みが始まって一週間も経たないが、再び登校できる日が待ち遠しい。虚無感だけは勘弁。

三人称視点

友達にはよく「ネガティブ」という評価を貰う。まあ、そう言えば確かにそれきりなんだけれど、言い訳程度の分析をさせてほしい。

ぼくは単純に傷付きやすい。そして、その傷が深手だろうが擦り傷程度だろうが、経験に昇華させるのがどうしても下手だ。だから傷は傷のままで放ったらかしがち。自身が発端である絶望だろうが、ちょっとした恋愛のトラウマだろうが、大好きだった祖父の死だろうが、何から何まで引っ提げている。加えて、ぼくはそこに別のぼくを要請して、酷く嘲る癖がある。本当に、いつからぼくの中に在住しているのかは知らないが、少なくとも他人らしく振る舞うぼくは、小学校高学年辺りからの付き合いだと思う。きっかけなんざ、結局はくだらないコンプレックスから端を発するんだろうからみっともない。

そういえば玉城夕紀氏が短編の後書きに、伊藤計劃氏の作風をこんな風に評していた。

「自身を世界を繊細に真摯に直視しながら、同時に冷笑的距離を保ち続けた」

全くその通りだと思う。ぼくが伊藤計劃氏に惹かれたのは、現実にこれを持ち込むぼくが、勝手に親近感や共通点を覚えたからなのだろう。

三者面で居座るぼくは、ぼくのやることなすこと、何もかも拒絶したがる。彼がぼくの領域に踏み込むことはないのだけれど、そろそろお暇していただきたいのも本音。否定の一点張りを繰り返す人間というのは、他人だろうが自分だろうが鬱陶しくて仕方がないし、このメンタルのあり方をファッションにするような浅はかさも手元にはない。流石に失せてくれ。

屈強、とまでは言わないけれど、それなりのメンタルの強さは手に入ったと思う。あとはそいつでじわじわと「否定のぼく」をなぶり殺しにしてやりたい。別に時間はあるんだし、急ぐこともないが、とにかく、ネガティブのレッテルもそろそろお役御免にしてやりたいだけ。

ただ、人間は空腹だと悲観的な思考に陥りやすいらしい。うん、ダイエット中の敵が増えた。

喜ぶオタク

クリスマスは軽音部の先輩と同期、そしてぼくの三人で過ごした。やったことと言えば、閉店前のガンダムカフェに滑り込んだことと、太陽の塔の中身を覗いたこと。

メニューがリニューアル(というか減った)からは一度も行けていなかったのだけれど、久々に行ってもやはり楽しいもの。機動戦士ガンダム00の第三話で刹那がロックオンから奢られたミルクを飲みながら、宇宙世紀ハンバーガーショップ、マクダニエルのハンバーガーを頬張る。再現食は、やっぱりオタクが一番喜ぶ要素の一つ。東京の方ならもっとメニューが多いから行きたいのだけど、閉店には間に合わなさそう。断念。

太陽の塔は、ぼくの語彙では全部を表現なんて出来やしないので、各々気になる人には行ってもらおう。とにかく生命の神秘をダイレクトに感じられたし、その伝達の手法にも目を見張るものが。しかしネタバレになるので何も言えない。とにかく、明確にされたテーマを念頭において見る作品というのは、自分でそれを探し出すのも良いけど、メッセージを手っ取り早く的確に得るのには、このやり方が良い。

クリスマスなんて名ばかりの、単なるやりたいことをやる時間だったけれど、それなりの充実感は今も残っている。

ただ、食べ歩きができなかったのが心残り。ダイエットよ、終われ。

どの空でもいい

濃縮された鬱気が心身に充満するのは、周期的にあること。選り取り見取りの記憶にへばり付いた嫌な思い出とか、見窄らしいルサンチマンとか、ぼくだって相対したくないけれど、そいつらはぼくの精神世界に隠れ家を築いている。

ロックスターならクスリ。サラリーマンとか大学生なら酒。ぼくはどちらも好まない。というか前者は法に触れるから、大人がこぞって使う逃げ道はぼくには向かない。19歳だから後者も法律に抵触しまくるのだけど、飲んでないし。音楽は、確かにぼくを数多のしがらみから解放してくれるんだけれど、後々の一人反省会で滅多撃ちにされるのがお約束だから、ダウン気味の気持ちを跳ね除けるのにはいささか不適格。

これ、言うと引く人と納得する人の二択なんだけれど、ぼくが逃避の手段として使うのは、雨に打たれながら自転車に乗るなり走るなりすること。どれだけ冷たくても、服が汚れても、昔人が天からの恵みだと舞い上がったように、ぼくもその身を晒して空の涙の勢いに飲まれる。漂う匂いを目一杯肺に溜める。あの匂い、ペトリコールと言って、雨が地面に落ちて弾けた時に、その場の匂いも巻き込んで舞い上がった、単なる土とかアスファルトの匂いにすぎないのだけれど、ぼくにとっては遠い空の匂いだ。空の一部になって、ぼくは誰にも行けない場所にいるような錯覚をする。雨音と絶え間なく視界を仕切る水がぼくを外界から遮断することも相まって、普段は得られない幸福に満たされる。

感受性は常に不均衡なところにあるけれど、この変態じみた行為だけはいつだってぼくの拠り所だ。たとえどの場所どの時でも、馬鹿に冷たい雨がぼくの全部を洗い流して、現実と反比例して晴々しさをもたらす。

世界に切り取られた錯覚に浸る。ちょっと愚からしいが、その憂いも忘れる程に、雨は僕を満たす。

絶対関係ない

30という数字が、なぜかぼくの好きなものに付きまとっている。少し前の記事で細々文句を垂れたが、休日には少しでも触れたくなるゲーム、スーパーロボット大戦30。今日から発売及び配信の、UVERworldの新アルバム「30」。

いやまあ、この二つに共通点なんてないのはわかっているんだけれど、何だか偶然で片づけたがらない自分がいる気がする。UVERworldと言えば、機動戦士ガンダム00のオープニングと劇場版のエンディングを担当していたのだけれど、今回のスパロボには参戦していないから、やっぱり関係なし。DLC参戦お待ちしております。

この他愛もない話をして共感してくれる人は、どれほどいるのだろうか。スパロボUVERも好きな人間って、めちゃくちゃに絞られると思う。ロボットアニメ好きでロック好きはそれなりに聞くけど、UVERはアニメ主題歌以外知らない人ばかり。もしかして、ロボットオタクとUVERは相容れないのだろうか。なんでだよ。かっこいいじゃんUVER。すこれよ。

そういえば少し前のライブで「儚くも永久のカナシ」を披露したらしい。絶対するわけのない曲なんだけれど、これを口実にライブに連れて行って布教できないだろうか。無理ですね、失礼しました。

EN

EN

ちなみに、この前自身の部活のライブで披露したのはSUPER BEAVERの「27」。3少ない。

写真をお手元に

ライブの写真が、Googleフォトに共有されていた。バンドを掛け持った先輩達がずらり。何度も同じ顔が流れる中、ぽつりとぼくらのバンドの演奏風景は佇んでいた。枚数は、それなり。

すごく良い顔だったと思う。ぼくも含めた皆んなが、途轍もなく輝いて見えた。ナルシスト的な感想でなくて、多分、誰が見ても良い顔だと口を揃えて言うと思う。

自分がこんな顔で歌っているなんて知らなかった。一昨日まで自分の顔が嫌いだったから写真を見返す事はなかったし、今までの人生で楽しかったライブは、ダンスをやっていた時も含めて数少なかった。充実している証拠が、こうもはっきりとした形で見せつけられるのは、正直かなり驚いた。ぼくにとって音楽は、どうやら単なる趣味に留まらないらしい。映画を見ている時にあんな顔をした覚えはないし、本を読んでいる時はそこそこ険しい顔をしているらしいし。

あの時間、ぼくらは誰よりも格好良かった。誰よりも満ち足りていた。

ぼくが一番になれるのは、きっとどこでもできる。場所はどこだって良い。歌を歌う時、ぼくは誰よりも輝いている。19年生きて、初めて知ったこと。

いってきます

例のライブの日だ。投票で選ばれたバンドだけが出られる、あのライブ。

別に、何かを意気込むつもりはない。ステージで下手くそに叫んで、暴れて、その様が答え。

とりあえず、今回こそオープニングアクトを務めさせてもらうことになった。本来別の先輩バンドの役割だったんだけれど、都合上、測らずとも遅刻のリベンジとなった。遅れるなよ、ドラム。

多分、ぼくらは大丈夫。根拠のない確証だけど、それでもやっぱり大丈夫。ただ笑えれば良いや。ぼくの人生が、ずっとぼくに心底恨まれてきたことが報われれば。

とりあえず、いろんな人にありがとうを。

よろしくどうぞ。