三人称視点

友達にはよく「ネガティブ」という評価を貰う。まあ、そう言えば確かにそれきりなんだけれど、言い訳程度の分析をさせてほしい。

ぼくは単純に傷付きやすい。そして、その傷が深手だろうが擦り傷程度だろうが、経験に昇華させるのがどうしても下手だ。だから傷は傷のままで放ったらかしがち。自身が発端である絶望だろうが、ちょっとした恋愛のトラウマだろうが、大好きだった祖父の死だろうが、何から何まで引っ提げている。加えて、ぼくはそこに別のぼくを要請して、酷く嘲る癖がある。本当に、いつからぼくの中に在住しているのかは知らないが、少なくとも他人らしく振る舞うぼくは、小学校高学年辺りからの付き合いだと思う。きっかけなんざ、結局はくだらないコンプレックスから端を発するんだろうからみっともない。

そういえば玉城夕紀氏が短編の後書きに、伊藤計劃氏の作風をこんな風に評していた。

「自身を世界を繊細に真摯に直視しながら、同時に冷笑的距離を保ち続けた」

全くその通りだと思う。ぼくが伊藤計劃氏に惹かれたのは、現実にこれを持ち込むぼくが、勝手に親近感や共通点を覚えたからなのだろう。

三者面で居座るぼくは、ぼくのやることなすこと、何もかも拒絶したがる。彼がぼくの領域に踏み込むことはないのだけれど、そろそろお暇していただきたいのも本音。否定の一点張りを繰り返す人間というのは、他人だろうが自分だろうが鬱陶しくて仕方がないし、このメンタルのあり方をファッションにするような浅はかさも手元にはない。流石に失せてくれ。

屈強、とまでは言わないけれど、それなりのメンタルの強さは手に入ったと思う。あとはそいつでじわじわと「否定のぼく」をなぶり殺しにしてやりたい。別に時間はあるんだし、急ぐこともないが、とにかく、ネガティブのレッテルもそろそろお役御免にしてやりたいだけ。

ただ、人間は空腹だと悲観的な思考に陥りやすいらしい。うん、ダイエット中の敵が増えた。