ポケットサイズの独壇場

「そんなことはない。最近ある代理店のトラフィック分析に目を通したんですが、ウェブでいちばん勤勉に日記を書いているのは、日本人ですよ。その量といったら、あの国の国民はリアルで抑圧された感情を、ウェブに解放してるんじゃないかと思うくらいに」

義務教育真っ只中、中学生の時に初めて読んだ伊藤計劃氏の小説「虐殺器官」の主人公であるクラヴィス・シェパード大尉の台詞。これは何年もはてなブログに自身の思いの丈を綴り続けた伊藤計劃氏のちょっとした自虐な訳であるが、故にぼくも天才の跡を辿ろうと、言葉を綴り始めた次第。

ぼく、という一人称は正直、私生活では使い慣れない。しかし伊藤計劃氏が虐殺器官The Indifference Engineをはじめとした作品で繰り広げる「ぼく」という響きが堪らなく好きだから、ぼくはぼくとさせてもらう。

彼に惹かれていたのは大学生の身分をもぎ取るよりも過去の話であるが、心酔に至ったのは少し前。高校生活では読書からほんの少し離れてしまったが、流れ着いた大学生活ではその時間を十二分に確保できた。長堀鶴見緑地線に揺られながら服を着せた虐殺器官を覗き見ると、中学、高校で読んだ時よりも、展開する世界の景色が全く違っていた。乏しいながらもかき集め、地道に積み上げて出来上がった感性が、その時だけは体感したことのないほどに目一杯、稼働していた気がする。これが「センス・オブ・ワンダー」と呼ばれていることを知るのは少し後であるが、今はこの言葉を、ぼくの好き勝手の為に用意した独壇場の看板の一部に採用するまでに至っている。

そう、ここは独壇場。ぼくは今日、抑圧された感情をばら撒くことにした。ぼくは今日、ここで好きなものを好きと言い、嫌いなものを嫌いと言うと決めた。Twitterで呟くにはあまりに大きすぎること。本や映画の感想。あとヘイトスピーチ。140字の呟きなんかじゃなくて、ここに至るまでの約800字のぼやき。

無論、あの独り言でごった返した場所にも居座り続けるつもりだが、何故かあの場所では「見たくなければ見るな」が通じない。どうやらブロックやミュートといったツールを、多くの人が知らないらしい。ぼくは沢山呟いた。地元の爺さん婆さん、もしくは中年を相手に取らなければならないアルバイトの愚痴。中学時代、部活に押しかけてきた外部指導員と、その取り巻き生徒から頂戴した深めの傷、トラウマetc...。他人は見たがらないが、ぼくは吐き出したい。そこで排他されるのは、ぼく。あそこだって、ぼくの独壇場であって良いはずなのに。

半年近く前の話になるが、所属していたバンドが解散した。バンドに対する熱量が違うとぼくだけをクビにするらしかったが、散々溜め込んでいたお気持ち表明によって解散という形にしてやった。結局彼らはまだ一緒になってバンドをやっている訳だから、愚痴なんかよりもっと深い場所に根ざした心情を吐露するのが苦手なぼくの自爆特攻じみたこの行為に、あまり意味は無かったのだけれども。追い討ちをかけたのがドラム担当の彼の言葉。「Twitterで愚痴ばかりで、そんな人の歌が響くと思っているのか」。それまで、いかにしてぼくが君たちにバンドの熱を削がれていったかを語っていたのに、突拍子も無く言われた言葉がこれだ。その時ぼくは「これがぼくだから、悪いけど変えるつもりはない」と答えたが、今では「唐突に関係のない批判を繰り広げる君の書く歌詞の方が響かないと思うよ」と皮肉ってやるべきだったと後悔している。大体、あのギャラガー兄弟がまかり通るんだから、人一倍愚痴っぽいぼくだって歌っても構わないとは思う。ただ、ぼくがなんだって言える場所は、こうやって否定されてしまった。

インターネットが居場所、と言うだけで随分と軽く見たり、気持ち悪がるのが彼らの常套手段だろうが、大いに結構。どこでも生きられないよりは幾分かマシだろうから。理解の範疇外を拒絶する人間よりも、ぼくは浅ましくもないし。ここはぼくの場所であって、誰かにとやかく言われることはない。というよりも、とやかく言わせない。「見たくないなら見るな」の究極形が、このブログであるわけだ。いかにも嫌なところを突いてやった、みたいな風を吹かすバンドメンバーも、わざわざスクリーンショットをLINEのグループで吊るし上げて面白おかしくはやし立てる友人も、そんなことから逃げるためにこうしているのだから、同様のことがあったって真っ向から文句が言える。そんな風に言うなら見るな、と。

というわけで、ぼくはスマートフォン(時折大学指定のPC)から、ぼくの言葉スクラップの帝国を展開させていただく。